2017年10月14日 (土)

10/14 【読】 「騎士団長殺し・第1部・顕れるイデア編(村上春樹、新潮社)」

「騎士団長殺し・第1部・顕れるイデア編(村上春樹、新潮社)」

 前作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」以来4年ぶりとなる村上春樹の最新長編。今回は2分冊のうち第1部を読了した。

 主人公は肖像画描きを生業とする一人の壮年画家。妻と別れ、1ヶ月近い放浪ののち小田原近くの山中にたたずむ山荘で暮らしている。かつては著名な日本画家の私邸であったという山荘での暮らし、自然に囲まれた悠々自適な生活は、ある男性からの肖像画の依頼によって徐々に変化し始める。

 まずは第1部、ということで作品全体の評価はまだまだこれから。村上作品に特徴的な語りかけるような文体、内省的な主人公を包む優しい世界観は「ハルキスト」などと呼ばれる熱烈なファンのみならず、亭主のような野次馬的読書人にとっても心地良い。全編通じての穏やかな日本語は、海外作品のケバケバしい(あるいはタドタドしい)翻訳文、あるいは前衛を標榜する日本人作家にありがちな破壊的日本語に疲れ果てた亭主にとって、村上春樹の作品は「読む癒し」となっている。

 ちなみに亭主は、作品タイトルである「騎士団長殺し」から、ファンタジックな作品、あるいはミステリ的な作品を想像していた。先の作品紹介からもわかるとおり舞台は現代、主人公は画家と、ファンタジーやミステリとは少し毛色が異なるかと思ったが・・・読んで見ると確かに内容は「騎士団長殺し」であり「顕れるイデア」であった。 「タイトル」と「内容」のミスマッチの解消、これもまた読書の楽しみの一つといえそうだ。(2017.10.14)

2017年9月19日 (火)

09/19 【読】 「涙香迷宮(竹本健治、講談社)」

「涙香迷宮(竹本健治、講談社)」

 天才囲碁棋士・牧場智久シリーズ最新作。明治時代の新聞王にして通人、稀代の傑物との評価も高い黒岩涙香が残した暗号を巡る殺人事件の謎を、牧場とその恋人・武藤類子が解きあかす。このミステリーがすごい!2017年度版第1位、ミステリが読みたい!2017年度版第2位、週刊文春ミステリーベスト10第3位、2017年本格ミステリベスト10の4位、本格ミステリーワールド2017選出など、多くのメディアが絶賛した渾身作。

 黒岩涙香。新聞社「萬朝報」の創刊者にしてミステリ作家。海外文学の邦訳では「巌窟王」「噫無情」がことに有名。囲碁や連珠、ビリヤードなど数多くのゲームに通じ囲碁は有段の実力。連珠に至っては長年にわたるルール改定を手がけるなど「知の巨人」として知られる彼が残したとされる古い地下室が、茨城県常陸太田市の山中で見つかった。関係者とともに現地調査に向かった牧場と類子が見たもの、それは地下に広がる十二支を模した迷宮、そしてそこに書かれた48首の「いろは歌(全てのかなを1回づつ使って作られている)」だった。迷宮といろは歌の謎を解くべく推理合戦を繰り広げる関係者たち。ところが折から懸念されていた巨大台風が本州を襲い、地下室は外界と隔絶されてしまうーーーというのが本書の大きな流れ。息を呑む推理戦、圧倒的な物量で迫るパズルの数々、そしてストーリー全体に散りばめられた薀蓄の数々。現代新本格ミステリのフォーマットを踏襲しつつ、全編をゲームとパズルで演出したエンタテイメント性の高い作品に仕上がっている。先に挙げた「いろは歌」は、物語中には涙香が残したとされているが、おそらく竹本氏が製作したもの。1首ひねり出すだけでも大変な作業を、氏はなんと48首以上もひねり出し、さらにそれらがさらに次のパズル、暗号へとつながっているという大仕掛けのすさまじさは、読んだ人でなければわからないだろう。なるほどこのミス1位に輝くだけあると思わず納得。

 一方、(これは亭主がしばらくミステリから離れていたこともあるのだが)仕掛けの大きさ、斬新さに対して物語の構造は意外とオーソドックスというか、通常のミステリ作品の範疇にある。知識と閃き、超絶的な頭脳を持つ牧場の推理は例外としても、たとえば本シリーズのヒロイン・類子の人物像はかなり単純化・フォーマット化されている。言葉遣いや行動が男性視点で設定されているという印象。シリーズで設定を一貫させているのだと思うのだが・・・。(2017.09.19)

2017年8月31日 (木)

08/31 【読】 「愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3)(中沢新一、講談社選書メチエ)」

「愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3)(中沢新一、講談社選書メチエ)」

 人類学者中沢新一氏のライフワークともいうべき「対称性人類学」より、2002年中央大学での講義録を全5冊にまとめたシリーズが「カイエ・ソバージュ」。第3巻となる本作では、1920年代に人類学者マルセル・モースが著した「贈与論」をベースとし、北米北西海岸に居を構えていた先住民族ポトラッチ族の習俗から「純粋贈与」の概念を紡ぎ出す。さらに「純粋贈与」「贈与」「交換」という3つの原始社会活動から現在に連なる資本主義社会の構造を考察するとともに、この構造が資本主義社会の限界と、ブレイクスルーとを指し示す。

 本書に記されている事柄の多くは、「緑の資本論」や「純粋なる自然の贈与」といった氏の著作からの引用であり、氏の著作を多く読んでいる人間にとっては馴染み深い内容。ただしその引用が有機的に結合し、氏の思索の集大成となっている点は大いに注目すべきだろう。先に記した通り、本書は講義録からの書き起こしであり、一部追補はあるものの基本的に口語調、非常にわかりやすく記述されている。講義をうけた学生はもとより、読者にとっても理解しやすい。北欧神話や聖杯伝説、あるいは世界的な行事となったクリスマスの成り立ち、あるいは導入部に示される志賀直哉の小説などなど、多数のエピソードもまた氏の思索を理解するためのサブテキストである。(2017.08.31)

2017年8月30日 (水)

08/30 【読】 「悲しき熱帯(レヴィ=ストロース著・川田順造訳、中央公論新社)」

「悲しき熱帯(レヴィ・ストロース、川田順造・訳、中央公論新社)」

 フランスの人類学者・社会学者でブラジルのサンパウロ大学教授。サンパウロ大学赴任時にはインディオ社会のフィールドワークに従事したレヴィ・ストロースが、1955年に記した南アメリカ人類学の名著。日本では1967年に日本語版が初版、以降多くの国内人類学者・社会学者たちがテキストとして引用した。中公クラシックス版は2001年に2分冊として刊行。今回はその第1巻を読了。

 ポルトガルのセウタ攻略によって始まった大航海時代。アフリカ・アジア・北米・カリブ海諸国とその版図を広げる欧州列強にとって、南アメリカもまた重要な搾取の対象であった。欧州諸国による植民地支配は、南アメリカ先住民族(インディオ)たちの生活に大きな影響を及ぼす。一部は奴隷として欧州へと連行され、また一部は海岸から奥地へと追いやられたが、欧州諸国の経済・文化と急速に同化し鉄道敷設や農場経営などに従事した人々も多かったようである。急速に文明化され、その原始性を喪失していくインディオたち。彼らの文化を記録すべく、人類学者であるレヴィ・ストロースはブラジルに渡航、サンパウロから船・鉄道などを乗り継いでアマゾン川流域に住むインディオたちの村を目指すこととなる。

 本書は大きく5部から構成される。第1部はストロースが南アメリカに出発するに前の心境(まだまだ南アメリカが「未開の地」として探検されていた時代の話も含む)。第2部はストロースが南アメリカへ向かう途中、ポルトガルや北アフリカの港に寄港した際に記した雑文、第3部は南アメリカ到着直前・直後に記した船内外の様子、第4部は急速に近代化を遂げつつある南アメリカ都市部の様子、そして第5部はアマゾン川流域でインディオの小村にとどまった際のフィールドワークの結果。研究対象の構成を要素に分解し、要素間の構造を詳らかにする構造主義は、言語学者であるソシュールが端緒となりストロースが普及させたとのこと、本書の後半、第4部以降は確かに構造主義的な考察が多く見られる。一方、第1部から第3部は叙情的な技術が多く見られ、フランス人らしい過度な装飾と比喩を伴う文体や、ストロース自身の感情の乱れが目立つ。亭主ごときが訳の巧拙を云々するのはおこがましいとは思いつつ、それでもやはり微妙な訳が気になったりもする。第1部から3部までをなんとか乗り越え、第4部からようやく面白くなったというのが率直な感想である。ただ、第2部の「日没」の章などは、見渡す限り海の中で太陽が西へと落ちていく、その情景が荘厳に描写されていて、大いに叙情をかきたてられた。

 実を言えば、本書読了までにはかなりの時間がかかっている。第2部を読んでいる途中で本が水に濡れてしまい(カバンの中にミネラルウォーターをこぼして気づかなかったのだ)、本が読めなくなってしまったこともあった。体調が悪くなり数行読んで意識が落ちることもあった。その意味では印象深い作品ともいえるのだが、必ずしも内容の深い理解に繋がらなかったことは少し残念である。

2017年8月 8日 (火)

08/08 【読】 「応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱(呉座勇一、中公新書)」

「応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱(呉座勇一、中公新書)」


 応仁の乱。日本史史上最大の内乱とされるこの大騒乱の顛末を、奈良興福寺の二人の僧侶の視点から解説した書。著者は中世日本史研究家である呉座勇一氏、2016年刊行後大きな話題を呼び日本史関連では大変珍しいことに大ベストセラーとなった。

 亭主はそもそも日本史が苦手、従って応仁の乱が一体どのような騒乱だったのか上手く説明できない。ただ本書によればこの騒乱、きわめて難解な事件だったらしい。そもそも応仁の乱がなぜ起きたのかを端的に述べることが難しい上、誰と誰が戦ったのかも、どこが勝ったのかも、そしてどうやって幕引きしたのかも明確に語ることができないというのだ。大きくは京都を舞台に、東軍(幕府側)と西軍が対峙したようだが、陣営内では相手方への寝返りが頻発、度重なる停戦調停は幾度となく反故となり、終わらせようが無くなった結果騒乱は20数年にも及んだという。

 そんな乱世にあって、混迷する畿内の情勢をつぶさに見、書き留めていたのが興福寺の僧侶・経覚と尋尊の二人だ。当時奈良で最も力のあった興福寺を戦乱から守るべく、調整者としての能力を遺憾なく発揮した経覚と、常に冷静な視点で事態を俯瞰した尋尊。彼らがそれぞれに記した「経覚私要鈔」「大乗院寺社雑事記」の内容が本書の骨格となっている。それまで中世史研究者から軽んじられてきた二人の記録を本書で殊更に取り上げたのは、先行研究において貴族や武士たちからの視点で分析されてきた騒乱が、僧侶の視点を加えることでより俯瞰的かつ多面的にとらえられたからである。当時の興福寺は、いわゆる僧兵を持するという意味では武士的でもあり、地方に直轄地を持つという意味で貴族的でもあった。祈祷などでは将軍や朝廷の屋敷に出入りし、年中の行事では地方の有力者や民衆とも近しい関係にあった。寺社というcross sectionから騒乱を眺めることにより、もとより混沌としていた畿内の情勢が整理されて語られている。それにより、主役が存在せず、敗者勝者すらあいまいであった大騒乱が後世に与えた影響が、つぶさに見えてくるあたりもまた本書の大きな特徴と言えるだろう。

 ただ、やっていることはチンピラの小競り合い、しかもヒマに事欠いて他の領地にちょっかいをだしては大げんかになっているという感じ。当時の武士たちから品位や理性や知性といったものが感じられないあたりは残念で仕方ない。(2017.08.08)

2017年7月18日 (火)

07/18 【読】「書楼弔堂 炎昼(京極夏彦、集英社)」

「書楼弔堂 炎昼(京極夏彦、集英社)」

京極夏彦の最新長編。異形の古書店「弔堂」の店主が、店に迷い込んだ客である明治期の有名人にもっともふさわしい一冊を選び出す「探書」シリーズ第2巻。「探書漆」から「探書拾弐」まで、6つのエピソードを収録する。

都内某所、某寺へと続く坂道の途中を折れたドン詰まりに、陸燈台のようにそびえ立つ異形の建物「弔堂」が物語の舞台。中には古今東西の書物~西洋の稀覯本から地方の新聞紙に至るまで、あらゆる書物がそびえ立つ壁沿いに並べられている。店を仕切るはかつては僧侶、現在は還俗したという弔堂店主(名前は後々明らかとなる)。皮肉屋の美少年、しほるをお手伝いに、書物三昧の日々を送っている。弔堂の客は明治の文豪、文化人から学者、政治家、軍人に至るまで多岐にわたる。いずれも口伝にて店の名を知った人々、それぞれに悩みを秘めて店を訪れる。弔堂店主は彼らとの対話の中で彼らの悩みの本質を暴き出し、彼らが真に求める書物を選びだす、というのが本シリーズの大きな骨格である。

一方、第2巻となる本作の主人公は塔子という女性に交代する。薩摩隼人の士族を祖父に持つ彼女は、旧態然とした家父長制に支配された家風と、急激に社会進出をはかる世の女性たちの間で葛藤する。束縛と、自由。従属と、自立。息の詰まる家を抜け出し街へと出た彼女は、新体詩で一世を風靡する詩人、松岡と出会い、弔堂ののれんをくぐることとなる。

本書に登場する弔堂の客は、田山花袋、添田唖蝉坊、福来友吉ほか。いずれも当時高い知名度を誇り、現在もたびたび話題に上る有名人である。彼らが古書店「弔堂」を訪れたという史実はなく、あくまでも京極氏の遊び心・フィクションにすぎないのだが、彼らがなんらかのきっかけで人生に変節をもたらしたことは確かなようである。本書では「弔堂への来訪」を変節と解釈する。緻密な時代考証と綿密な物語が、作品全体にリアリティを与えている。

ところで。

この頃の出版界隈、「専門知識」の開陳をメインに据えた作品が乱立している。例えば「食」に関していえば、古くは知識人の教養として北大路魯山人や子母澤寛、水上勉らによって食のエッセイがしたためられていたものが、漫画「美味しんぼ」あたりで巷間のグルメブームと繋がり急速に普及、この頃はどのコミック誌にも「食」に関する作品が掲載されるありさまである。もちろん、「食」に関する作品の乱立は今に限ったことではない。「鉄鍋のジャン!」や「ミスター味っ子」あるいは「OH!MYコンブ」など食をテーマにした作品は以前からもあって、これらがひとつのジャンルを形成していたことは言うまでもない。対する現在の食をテーマにした作品は、おそらくだが「孤独のグルメ」あたりを発端としている。

「孤独のグルメ」を筆頭とした作品群の大きな特徴は、(1)それぞれのエピソードが完全に独立している、(2)エピソードの構造が常に画一的でありテンプレート化が進んでいる、(3)エピソードを重ねても作品としてのストーリーは進行しない、の3点にあるだろう。高い専門性や深い知識があって、登場人物が魅力的であるならば、テンプレートに沿っていくらでも再生産できるのが、現在の食をテーマにした作品である。

本書もまた、上に挙げた3つの特徴をおおむね満たしており、巻毎に主人公が変わる一方でネタさえあればいくらでも再生産可能な構造を有している。この点は京極氏の他の作品、たとえば「京極堂シリーズ」や「巷説百物語シリーズ」には見られない。底意地の悪いことを言うならば、亭主はこれらの構造を持つ作品をあまり評価していない(面白いとは思うがそれも飽きるまでの話だ)。本シリーズがどのような結末を迎えるかは良く分からないが、ネタが尽きるのが早いか、亭主が飽きるのが早いか、それとも京極氏が飽きるのが早いかの競争になるのなら、亭主としてはとっとと勝負から降りたいところだ。

2017年6月19日 (月)

06/19 【読】 「日本人の英語(マーク・ピーターセン、岩波新書)」

「日本人の英語(マーク・ピーターセン、岩波新書)」


 アメリカ、ウィスコンシン州出身の英米文学・近代日本文学研究者。現在は明治大学政治経済学部にて教授を務めるマーク・ピーターセン氏の1988年著書。英語を学ぶ・話す日本人が陥りやすい誤った英語の言い回しを解説した書。2016年3月には77刷を数えるなど、新書としては驚くほどのロング・ヒットを続けている。続編に「続日本人の英語」「実践日本人の英語」「心にとどく英語」など。


 著者が日本人の奇妙な英語に初めて触れたのは、彼が少年の頃。日本製の小さなトランジスタラジオに記された説明書、そこに書かれていた英語は、ネイティブには到底理解しがたい表現だったという。長じて日本にやってきた著者は、かつて氏が触れた奇妙な表現が依然として日本社会に蔓延していることを知る。冠詞や前置詞、動詞と副詞、関係詞などなどネイティブならば当然ともいうべき言い回しがなぜ日本人には難しいのかを豊富な例文と丁寧な解説で説明している。本書を読むと日本人の間違った英語が「受験の詰め込み教育」や「暗記専門の英語勉強法」などという単純な理由によるものではないことがはっきりとわかる。たとえば自動車は"get in"で、電車が"get on"である理由は歴史に由来し、使い分けは実に明確。ネイティブはその理由を理屈だけでなく、皮膚感覚として体得しているのだという。日本で英語を学ぶ人々がどれだけその理由を知り、皮膚にしみこませているのだろうか。もちろん、日本にはネイティブと同じ皮膚感覚を持って英語を駆使する人が多く存在するので、これが克服できない高い壁や深い溝であるということはない。だが、彼らがそれら壁や溝を学習によって体得したかといえば、いちがいにそうとは言えなさそうだ。


本書を読むと、冠詞や前置詞といった表現は、ビジュアルで説明する方が早いことが分かる。教本や英会話教室では学ぶことのできない、ビジュアルな英語世界を体験した時、英語と英語話者の気持ちが真に理解できるのではないかと、思えてならない。(2017.06.19)

2017年6月 2日 (金)

06/02 【読】 >「風雲のヤガ-グイン・サーガ141(五代ゆう、早川書房)」

「風雲のヤガ-グイン・サーガ141(五代ゆう、早川書房)」


 国産ヒロイック・ファンタジー「グイン・サーガ」最新刊。2009年に作者である栗本薫氏が逝去、その後二人の作家が交互に正篇の執筆を担当している。本書は二人の作家の一人、五代ゆう氏の執筆による。


 キタイの竜王ヤンダル・ゾッグによって魔都となってしまった新興宗教ミロク教の聖都・ヤガを舞台に、ゴーラ帝国の剣士ブランが人質救出に奔走する「ヤガ篇」と、同じくヤンダル・ゾッグ操る竜騎兵の追撃を逃れ豹頭王グインが統治するケイロニアへと入ったパロ宰相ヴァレリウス一行のその後を描いた「ケイロニア辺境篇」を収録。通常、グイン・サーガは全4話、1話が4章に分かれる構成を採用しているが、今回は第1話、2話が作品の3/4以上を占め、第3話は残り1/4、第4話は1章のみでごく短く、という変則的な構成となっている。話の内容からすれば第4章は次次巻(次巻は宵野ゆめ氏が担当する)のイントロ、引きを持たせるという意味では本巻に含めてもよいが、思い切って3話構成にしてもよかったような気がしないでもない。


 ヤガ篇は、「新しきミロク」幹部の陥穽でヤガの地下に落とされたブランが、新たな仲間を得て逆襲に転じる。地下で瞑想していたミロク教の修行僧、それにブランの協力者であるイェライシャによって味方へと転じた大魔導師たち(さて誰でしょう?)による大立ち回り、魔道合戦が見所。


 一方ケイロニア辺境篇は魔導士ヴァレリウス、聖騎士リギア、吟遊詩人マリウス、それに魔導士見習いアッシャの4人が、彼らを追ってケイロニアへと侵入してきた「蛇団」と対峙する。こちらも魔導戦の要素が強く、全体的には「バトルシーン盛りだくさん」といったところか。


 ところでグイン・サーがといえば、毎回巻末のあとがきが好評で、栗本氏時代は各種設定の公開や裏話、あるいは作者自身によるイベント告知などを楽しみにしていたファンも多い。今回の五代氏のあとがきはどことなく栗本氏の文体に似てはっちゃけた感じ、しかし読みようによってはかなりお疲れのようでもある。あとがきを読みながら氏を案じてしまった最新刊であった。(2017.05.18)

2017年5月18日 (木)

05/18 【読】 「ウィントン・マルサリスは本当にジャズを殺したのか?(中山康樹、シンコーミュージック)」

「ウィントン・マルサリスは本当にジャズを殺したのか?(中山康樹、シンコーミュージック)」


 ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれのトランペット奏者、ウィントン・マルサリスの半生をその功績を、「マイルス・デイヴィスに最も近い日本人」と言われた中山康樹が記した著。2015年8月刊。なお中山は本書を執筆中病床にあり、2015年1月に逝去したさい本稿が発見された。いわゆる絶筆となる。


 刺激的な、というかなかなか物騒なタイトルではあるが、いうまでもなく反語表現である。1961年生まれ、ニューオーリンズ生まれとはいうもののジャズとは格別かかわりのないまま育ち、クラシックの名門、ジュリアード音楽院でクラシックを学ぶ中でジャズの才能を見出された彼が、「マイルス・デイヴィスの再来」なるメディア戦略で数々の大物ジャズミュージシャンと共演、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの一員として活動するなどキャリアを重ねていく姿が語られる。だが、それだけでは彼が「ジャズを殺した」などと揶揄されるはずもない。彼はメディア戦略のなかでアメリカ、あるいは日本で華々しいプロモーションが行われたものの、特に日本においてはジャズ・ファンの不興をかったらしく、マイルスと比べればその後の活動が全く知られていない。アメリカにおいても(程度は異なれど)似たような状況のようである。彼自身、London Center Jazz Orchastra(LCJO)を率い、ジャズの地位を現在にまで引き上げた功労者であるにもかかわらず、ここまで不遇なのはなぜなのか、が本書の主題となる。著者である中山氏はスウィングジャーナル誌上においてはマルサリス擁護派として知られ、毎月マルサリスに関する記事を掲載していたという。病床にあった中山氏が伝えたかった、マルサリスの、ジャズに対するクールかつ熱い思いは活字となって読み手にひしとせまってくる。


 なお本書は、多作家であったマルサリスのディスコグラフィのみならず、作品が生まれた経緯や聴きどころ、アーティスト周辺情報などもふんだんに盛り込んでいて、マルサリスの失地回復というよりも、新たなファンに向けてのディスクガイドとしての性格が強い。死後彼の遺品を整理していたところ、かれが書いたと思しきアルバムベスト20なども巻末に収録されている。オールドスクールなジャズを殺し、現代ジャズへと生まれ変わらせたのイノヴェイター、彼に続く若きジャズ・アーティストたちを導き続けた先駆者、そして搾取されていたジャズ・アーティストの待遇改善をも実現したエグゼクティヴ、多彩な顔を持つマルサリスの姿を情熱的な筆致で伝えている。(2017.05.18)

2017年5月12日 (金)

05/12 【読】「贈与論(マルセル・モース著・𠮷田禎吾・江川純一訳、ちくま学芸文庫)」

「贈与論(マルセル・モース著・𠮷田禎吾・江川純一訳、ちくま学芸文庫)」

フランス出身の社会学者・民族学者であるマルセル・モースが、人間社会のなかでもっともプリミティブな行動とされる「贈与」について社会人類学・文化人類学的知見から考察した書。膨大なフィールドワークや文献調査から得られた「贈与」の行為は、資本経済によって塗りつぶされてしまった人間社会のより原初的な姿を明らかとする。

モースによれば、交換社会あるいは贈与社会のもっとも原初的な形態は、少し前のポリネシアあるいは北東アジアの少数民族にみられていたという。客人に惜しげもなく食べ物を振る舞い、また所有財産を気前よく与える贈与の慣習は、富の豊かさや社会的地位の高さを示す指標であるとともに、その土地に根ざす神に対する忠誠と示すものであった。原初的な社会において、事物は動産・不動産、生物・物質、あるいは人間・動物を区別することなく神の所有物であり、それを人間が占有することは神への冒涜・不敬であった。それゆえ人々はときに自らの財物を越えた贈与を客人に施すほか、家財や武器、富を示す様々な物と川や湖に投げ捨てることで自らの魂の気高さを神に示してきた。

興味深いことに、贈与社会はある意味人類文明のエッジともいえるポリネシアや北東アジアのみならず、ゲルマン民族やケルト民族、あるいはインド・アーリア民族にもみられるのだそうだ。いずれも長い歴史による文明化、資本社会の浸透により現在はごく一般的な「贈り物」「もてなし」程度にまで薄まってしまっているが、古い叙事詩や教典などには、古代の贈与社会を伺わせる記述があって、それははことごとく前述のエッジの民族のものとよく似ているのだという。モース自身はフィールドワークをよくせず、もっぱら研究者たちに調査の方法などをアドバイスしていたそうだが、収集した各種成果の膨大さは、「贈与」と「神」の関係は地球的規模であったことを示している。

なお、本書における贈与の形態は、人間と人間、あるいは人間と神との関係に限られている。後年の研究では人間と動物、あるいは人間と自然との間の贈与についてもフィールドワークがすすみ、日本では特に中沢新一が深く掘り下げている。

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