雑談

2020年3月21日 (土)

03/21 日々雑感

久しぶりに、目標を定めずぐだぐだ書いてみたい。

このところ激務が続いていて、目の下にクマを作って会社を往復している。まあクマができる理由は仕事だけではなく、現在進めているゲームのせいでもあるのだが、正直現在は仕事がメインできつい。好きなCDも買えず、本も読めていないのはコロナウィルスのおかげで東京出張が根こそぎ中止になっているからで、仕事やらゲームやらコロナやらで亭主のストレスは頂点に達しつつある。

春分の日の昨日は出社して、報告書やらなにやらを作っていたのだが、どちらかといえばメインは昼食の「山岡家」だった。ストレスが頂点を迎える中、なんとかどこかでガス抜きがしたいと、昼に会社を抜け出して山岡家で醤油ネギチャーシュー麺中盛を食べようと心に決めていたのだ。

人間は目的ができると頑張れるものである。誰もいないオフィスで昼休みを無視して働き続け、昼2時過ぎになんとか報告書を提出。帰宅の途中に山岡家に寄り念願のラーメンを堪能することができた。

山岡家は、亭主が学生の頃初めて食べた家系ラーメンだ。千葉に住んでいたころ、友人の松田氏と一緒に、車を駆って牛久の山岡家に行き醤油ネギチャーシュー麺中盛を食べるのを楽しみにしていた。当時山岡家は、この牛久店が唯一だったと記憶している(1号店が札幌にあって牛久が2号店だったという話も聞いたことがある)。深夜営業、とんこつ臭い店内、うずたかく積みあがった大橋製麺の箱。当時はチェーン店などではなく、コワモテのオヤジが渾身の一杯を提供するプレミアムな店だった。時には筑波大学に通っているであろう学生バイトがラーメンを作っていたが、こちらの味はいまいちだった。もっとも、作り続ければスキルは高まるもので、学生バイトの味も徐々には改善したが、残念ながら大学には卒業というものがある。

大学を卒業し茨城に就職してからもちょくちょく牛久に出かけては山岡家を堪能していたのだけれど、そのうちにチェーン展開が始まり、県内外にぞろぞろと支店ができ始めると、その味の低下がかなり気になった。天下一品やそのほかの家系ラーメンに興味が移り、やがて県内のラーメンを制覇すべく土日になると鉄砲玉のようにあちこち移動する生活が始まったのは、亭主をよく知る人ならばご存じの話だ。

ただ、結婚してからはそんな無謀なチャレンジはすっかり影を潜めた。その代わりに健康生活が始まった。

だがそんな中でもラーメンへの渇望は激しく、妻が出かけたときはここぞとばかりにラーメンを食べていた。

県内の名店や、新店の開拓ではなく、近場の山岡家で大好物の醤油ネギチャーシュー麺中盛を食べるのが楽しみになった。もちろん気が向けばほかの店にも行くが、ちょっとしたスキマ時間ならば当たり外れがなく、常に営業している山岡家に行くのが一番安心できた。結局亭主は山岡家と醤油ネギチャーシュー麺中盛があればおおむね満足なのだ。

チェーン店でも良い。格別美味でなくても良い。学生時代から食べてきた店、食べてきたメニューがあることが、亭主の心をしっかりと支えてくれている。

外食は、家系ラーメンと、マクドナルドがあればとりあえずいいかな。

下手な冒険に出て見知らぬ店に入り、その味にがっかりするよりは、いつもの味が楽しめればそれでよい。

2020年3月13日 (金)

03/11 かつての大災害に思いを寄せる

9年前の3月11日、東北、関東を中心とした広い地域で、最大震度7にも及ぶ巨大地震が発生した。

震源は太平洋沿岸。東北から千葉までの3か所の震域が連動することで、1000年に一度と呼ばれる地震災害を引き起こした。

沿岸地域は津波で壊滅、内陸では地盤が液状化し、多くの道路が使用不能となった。なかでも最悪だったのは、福島県の東京電力福島原子力発電所の一部原子炉がメルトダウンを起こし、幅広い地域で放射能汚染を引き起こしたことだ。汚染を逃れ多くの人々が住み慣れた土地を離れ、現在でも故郷から遠く離れた地で不自由な生活を送っている。発電所ではいつ終わるとも知れない廃炉作業、放射能との戦いが続いている。

あれから9年が経った。懸命の除染作業と発電所の放射能処理により避難区域は縮小し、通行不能だった高速道路や鉄道が開通することで、徐々にではあるが地震前の姿を取り戻しつつある。だが、かつて原子力発電所を中心に栄えた地域にもはや活気などなく、多くの住民も故郷に帰還することのないまま、急速に衰退している。

以来、様々な地域で大地震や洪水、台風被害が発生し、そのたびに人々の暮らしが脅かされている。いや、脅かされるどころか暮らしは年々疲弊し、もはや日本の中で災害に遭わなかった地域などないに等しい、そんな状態となっている。そして追い打ちをかけるかのような昨今の疫病の蔓延。その発生源が中国であったこと、おりしも中国の旧正月(春節)の時期と重なり、多くの中国人や中国に渡航していた人間が海外でウィルスをまき散らした結果、疫病はいまや世界全体で覆う災禍となっている。

世間には、かつての大災害が、人々の心の中から徐々に忘れ去られていると嘆く人もいるが、亭主はそうは思わない。新たな災害が次々と引き起こされることで人々は疲弊を極め、もはや嘆く暇すら与えられない状況にあるのではないだろうか。

辛いことがあっても、とりあえず前を向いて進む。今我々にできることはそれしかない。

壊れたら直す。病んだら癒す。失われたら再び作り出す。そうやって前を向くことで、人々はもう少し歩いてみよう、生きていこうという意思を取り戻すのだ。

 

2020年3月11日 (水)

03/10 日々雑感

3/10の23:59をもって愛犬家向けSNS「いぬノート」が終了した。

最後は会員のみなさんがよってたかって投稿してサーバーを落とそうという話になり、タイムラインがみんなの「ありがとう」で埋め尽くされるなか、終了の時刻を迎えた。

これほどまでユーザに愛されたSNSも、そうそうなかっただろう。亭主の知る限り、もめごとなどもなかったようである。わんこを家族に迎えたひとたちが集った優しいコミュニティがまたどこかに立ち上がることを、そして「いぬノート」に集い、交流を深めた人々が再び集える場所が見つかることを強く望んでいる。

・・・と書いていたら、日をまたいでもまた投稿できるそうで、別れを惜しんでいたみなさんちょっと混乱しているみたい(笑)

2020年1月16日 (木)

01/16 日々雑感

このところ、中国/台湾製ミニノートPC(Ultra Micro PC : UMPC)の新製品ラッシュが続いている。

たとえば中国GPD Technology社のGPD Pocketシリーズは、製品改良を重ねて新機種をどんどんとリリースしている。GPDに限らず様々な中小ベンチャーが様々なデザイン・機能を持ったUMPCを発表、なかにはクラウドファンディングを活用した完全受注生産品もある。

そういえば、1990年代にも同じく超小型PCのブームがあった。たとえば東芝のLibretto 20、IBMのPalm Top PC 110(ウルトラマンPCなどともいわれた)、それからWindows CEを搭載したSigmarionなども超小型PCの一つといえるだろうか。数あるPCから亭主はSigmarionを購入し、あちこち持ち歩いた記憶がある。

そうそう、2000年代後半にも超小型PCのブームがあり、(このブログにも書いたように)SharpのNetwalkerを購入した。Ubuntu搭載、現在はOSサポートが完全に切れているものの、我が家のホームネットワークのメンテナンス用に活用している。気軽に持ち歩き、ルータに直接接続して設定をいじれるのが便利なのだ。

かねてよりミニノートPCには亭主なりのこだわりがあった。(1)CPUパワーが高いコト、(2)バッテリーの持ちが良いコト、(3)キーボード配列がマトモなコト。ノートPCが発売されて以来、亭主はこの3つを常に念頭に、機種を選んできたつもりだ。ただ、残念ながらこの3つを同時に満足するような機種はこれまで発売されていない。亭主の場合、ノートPCはもっぱらテキスト書きに使う。出先でバッテリーの残量を気にしながら、変則的なレイアウトを持つキーボードでテキストを入力するくらいならば、スマートフォンやタブレットにBluetoothキーボードを接続したり、Kingjim Pomera DM100を使ったりしてガシガシとテキストを書く方が性分にあう。

かつてミニノートPCは、小さな筐体にどれだけ最新技術を詰め込めるかという技術競争の成果であった。ユーザーは、その小さな筐体に無限の可能性を感じ、ポケットにしのばせることでまるで未来が自分の手の中にあるようなワクワクを感じていたものだ。

現在のミニノートPCブームは、亭主にとっては1周(どころか2周)遅れのブームであり、最新の小型化技術を手中にした台湾や中国のPCメーカと、過去のブームを知らない新規PCユーザーのワクワク感に支えられているように見える。たしかにCPUパワーの向上、バッテリー技術の向上によって性能は各段に向上したのだろうが、同時にOSやアプリのオーバーヘッドは増しているし、小型化のあおりをうけた変則的なキーボード配列は相変わらずである。

次々発売される新製品を横目にみやりつつ、Pomeraがあればテキスト入力用途は事足りる、と、と心安らかな日々を送る亭主である。唯一気になるのはiPadやiPad miniで使えるApple Pencil。日々のいろいろなアイデアやブログネタをまとめるのに、手書きメモが有効なのではないかと思っている。

いざブログ記事や「読」「聴」のレビュー記事を書こうとキーボードに向かうもののなかなか筆が進まないのは、記事を書く際の様々なアイデアやネタが揃わないまま、頭の中に取り留めなく浮かんだアイデアだけで書こうとするためらしい。漠然とした思考をまずビジュアルに書き止め、そこからアイデアをまとめていけば、きっと良い記事が書けるに違いない。

タブレットPCをアイデアノート代わりに使っている人の感想をぜひ聞いてみたいものである。

2020年1月 6日 (月)

01/06 新年のご挨拶

昨年は、沈滞と不和と別離の年だった。

とにかくこれでもかとトラブルが続出し、たくさんの親しい人たちがこの世を去り、そして亭主自身もまた絶不調に見舞われた。そのひとつひとつをいちいちあげつらうつもりは毛頭なく、ただ今年こそは穏やかな年であってほしいと願うばかりである。

言いたいことはいろいろあるし、書きたいことも様々あるのに、いざキーボードの前に向かうと思考が停止する。様々な言葉が頭の中をよぎるものの、文章にしようとするとなぜか言葉が(言の葉、というとおり)ヒラヒラと掌をすり抜けてゆく。結果、ブログは全く更新されず、ただひたすら「進捗」ばかりが進捗していく結果となった。

年が明けたら状況が180度好転するはずもない。今年も多分、キーボードに向かえば思考は停止することだろう。

なので、今年も引き続き、無理に言いたいこと、書きたいことをブログ記事にすることはしない。その代わりに「読」や「聴」の記事の中に、自らの想いをたっぷりと込めることにする。そもそもこのサイトは音楽と読書のページなのだから、そちらが充実するのならばそれに越したことはない。

そんなこんなで、今年も楽しくレビュー記事を上げていきます。

皆様引き続きのご愛顧をよろしくお願いいたします。

2019年12月 8日 (日)

12/08 日々雑感

結婚以降、オーディオ店やCD店、およびこれらの中古店からすっかり足が遠のいていて、以前ならば週に1度かならず顔を出していたハードオフも、最近はすっかりご無沙汰である。

今日日、中古店に出物が並ぶことなどほとんどないのだが、以前は「念のため」「もしかしたら」と毎週通っていた。結婚し、店に通わなくなった当時は「もしかしたら亭主が不在の間にナイスなアイテムが売りに出されているのではないか」と不安になり、仕事をしていても落ち着かない日々が続いた。こうなるともう禁断症状、強迫神経症に近い。結果症状がおさまるのに5年ほどかかった。あとから考えると、あのそわそわ感はいったい何だったんだろうかと思う。今は憑き物がおちたようにさっぱりしている。

この日は妻が留守にするというので、4〜5年ぶりに水戸のハードオフをのぞいたのだが、売場のラインナップが以前と全く変わっておらず・・・というか、売り物は変わっているのだろうが売場の放つオーラは全く変わっていなかった。当然のようにナイスなアイテムもなく、たいして欲しいとも思わない中古CDを2枚買って帰ってきた。

4〜5年ぶりのハードオフにも関わらず、欲しくもないCDを2枚買うというやる気のなさが亭主の今を、そして中古市場の今を如実に物語っている。時代の名機はどんどん劣化し廃棄されているし、かろうじて残ったアイテムはインターネットのオークションやフリマアプリ上で流通しているにすぎない。そしてそのほとんどがチャイナマネーの威力によって中国に向かって流れるか、転売ヤーと呼ばれるオークション好きたちが買ったり売ったり、ぐるぐると同じ場所を回っている。

2019年12月 3日 (火)

12/03 日々雑感

このところ、立て続けにお悔やみが続いて人事不省に陥りかけている亭主である。この1年で、親戚で二人、大学関係で一人、職場関係で一人がこの世を去った。いずれも大往生とは程遠く、まだまだ働き盛り、体力も気力も申し分ない年齢での死をどう納得せよというのだろうか。

別れは人の定めであると充分に理解していても、危篤の報を聞けば憔悴し、訃報を聞けばただただ言葉を失うばかりである。葬儀に出ても、遺された人人になんと声をかけてよいかわからず、もごもごとなにやら呪文を唱えながら頭を下げるしかない。お悔やみを申し上げます、ご冥福をお祈りします、ご愁傷さまです、このたびは・・・

病気の苦しみから解放されて、今は安らかな世界にいる、だから本人にとってよかったことなのだと無理やり納得する。ただむやみに遺された人々に言う話でもない。残念です、無念でしょうね、お気を落としのことと思いますが・・・

そんな悲しむ人々を眼下に見やりつつ、癌で苦しんでいた故人、不随となってベッドに横たわるばかりだった故人らはみな肉体の束縛から逃れ、魂は自由に空を渡る。

自由。そう、亭主の一番望むものもまた自由なのだ。いまはこんな世界にいろいろなしがらみでがんじがらめになっているが、亭主もまた自由を夢見ている。

2019年11月28日 (木)

11/28 日々雑感

「パナソニックが液晶パネル終息。「日本のディスプレイ産業」を振り返る(西田宗千佳)」

パナソニック子会社が液晶パネル生産を21年を目処に終了するという発表を受け、西田氏は「そろそろ『日本のディスプレイメーカー、全敗』の総括」を記している。

だが、亭主はこれを「全敗」ととらえていない。

先端技術を搭載した製品が、世間一般に普及し、量産され、やがて廉価版として枯れていくなかでの流れにすぎないと考えている。

かつて扇風機やシェーバー、ドライヤーなどを製造していた大手電機メーカが、それら製品とシェアをより小さな電機メーカに受け渡した流れ、これと同じ流れが液晶パネルにも起きているのだ。

もし大手電機メーカが扇風機やシェーバーでシェアを維持しようとするならば、コストではなく付加価値で競争するしかない。最新技術を投入して、高機能・高付加価値の製品を、比較的高い価格で提供するしかないのだ(パナソニックは美容器具で、シャープは空気清浄機でこの戦略を採用している)。

しかし、この方法にもいつか限界がくる。多くの大手電機メーカは現在のシェアを小さな電機メーカに明け渡し、自らは研究開発の成果をもって新しい製品・新しい市場の開拓に望むこととなる。

かつて高機能・高付加価値をうたった液晶パネルの技術やシェアもまた、後進のメーカに譲るしか方法がないのだ。それは必ずしも敗北などではなく、むしろ研究開発部門を擁し、常に高い意識を持って技術開発する大手メーカの宿命といってよい。

大手メーカが研究開発の歩みを止め、現在の技術レベルに安住しようとすることこそが真の敗北である。いや、国策として製品が定められた企業のどこに未来があるのかと問われるとなんともいえないが。


2019年10月27日 (日)

10/27 CDと音楽業界とオーディオの将来を妄想する

奥田民生「CDはなくなるでしょうね」YouTuberとして活動する理由語る(マイナビニュース)

そのうち埋もれてしまうと思うが、一応クリップしておく。

実際亭主も、CDは購入しても聞くのはだいたいリッピングしたデジタルデータだったりするので、CDが早晩なくなるだろう、という意見にはおおむね同意する(亭主が望むと望まざるとにかかわらずだ)。しかしこれは、CDの終焉、というよりは、CDをメディアとしたビジネススキームが成り立たなくなるということを意味しているわけで、音楽は依然としてメディアの上にあって、作り手も聴き手もそのメディアを介して音楽を楽しむということでもある。

メディアがCDではなく、たとえばYoutubeやハイレゾ音源のサイトとなるというのは、近未来のビジョンとして容易に想像可能である。おそらく5Gが普及し、大容量データが高速にやりとりできるようになったら、音楽データは常にサーバ側、配信側にあって、聴き手は聴きたい音楽を聴きたいときにサーバからストリーミングで聴くことになるだろう。A面/B面、アルバム/シングルという単位は存在せず、音楽の単位は「曲」と「プレイリスト」になる(実はすでにそうなっている)。聴き手は「曲」を選ぶか、配信側が自動的にアレンジした「プレイリスト」を聴くことになる(すでにそうだ)。亭主が期待したいのは「プレイリスト」を自動作成する際のバリエーションで、いわゆるアーティストやレーベルといった単位だけでなく、ベストアルバム、コンピレーション、アンソロジー、気分に合わせた音楽、過去に聴いた曲、マイベストなど、聴き手の様々なニーズにこたえてくれることを期待している。GoogleやAmazonならばできることだろう。

CDはメディアの主力から外れるだろうが、クラシックやジャズ、また往年のロックなどではこれからも現役であり続けるだろう。新しいタイトルは出ないかもしれないが、レコード会社に存在する無尽蔵の音源データは、再販という形で何度でもユーザに提供され続けるだろう。店舗の数は激減するが、衰退を免れたアナログや、アーティストグッズ販売、インストアライブなどを組み合わせることで生き残る店舗もあるだろう。ただし、すべての音楽がCD(あるいはアナログやカセットなどのパッケージメディア)となる時代はもう来ないだろう。

アーティストは(リンク先の奥田民生のように)Youtubeなどを拠点に活動するか、Soundcloudなどの音楽配信サイトやレーベルが立ち上げたサイトで音楽を発表することになるだろう。ただし利益を確保するためには、より大きなサイト、人の集まるサイトで活動する必要がある。ライブやアーティストグッズなどと組み合わせたビジネスモデルとなるが、もはやレコード会社はその中には必須ではない(アーティストをマネジメントする会社は必要だろうが)。1980~2000年頃まで続いた「音楽」というビッグ・ビジネスはどんどん衰退し、小規模かつニッチなものとなると予想している。利益がシュリンクするなかでレコード会社のような巨大組織を維持させるのはかなり難しく、レコード会社もまたクラシックやジャズといった分野を中心として事業規模を限定することになるだろう。

最後に音楽を再生する手段、オーディオに関しては、レガシイとしてのCDプレーヤは残るものの、主力はPCオーディオ(PCからの音楽データをアンプに送る)、ネットワークオーディオ(NASなどに保存されている音楽データをアンプに送る)に移る(すでにそれがあたりまえになっている)。もう一つ、レコード会社や音楽配信業者のサイトからネットワーク経由で直接音楽をアンプに送るオーディオ機器も登場するだろう。オーディオというのはなかなか特異な分野で、世の中がデジタル化、小型化に動くと、コイルのように逆起電力が働きアナログプレーヤや真空管アンプの人気が再燃する。デジタルだが、真空管やオーディオ用コンデンサの特性をシミュレーションした「真空管アンプエミュレータ」が登場するかもしれない。最近のスピーカはどれもこれも性能が良いかわりに個性に乏しいので、未来のスピーカもまた個性に乏しいものばかりを想像してしまう。いっそスピーカだけはどんどん個性化していってほしい。マーチンローガンやマグネパン、ラウザーやJBLなど個性的な方式、デザインのものが百花繚乱していってくれることを期待している。

なんでもかんでもデジタル化され、高効率かつ小型化されていくなかで、スピーカくらいは羽目を外していってほしいものだ。

2019年10月10日 (木)

10/10 「日々進捗」の意味

亭主がときどき(というか頻繁に)「進捗」について記事を書くのには理由がある。

もちろん「どむや」に来ていただいている読者が、「進捗」に関心がないのは知っている。そもそも何を書いているのかさっぱりわからないだろうし、もし何を書いているか分かったとしても、大した情報でもない。いわば、「まったく読むだけの無駄な記事」である。

だが、亭主たち世代は、かつてこのような「進捗」を当たり前のように見ていたことがある。

家族で出かけた食堂で、メニューを注文した後に見る漫画雑誌。

旅行先で買ってもらった漫画雑誌。

あの時、わくわくして開いた雑誌の中には、「進捗」のような漫画が常に掲載されていたはずだ。

そもそも子供が、週刊の漫画雑誌を毎号読めることはまれである。本屋の子だとか、あるいは親が毎号買ってくるならば話は別だが、多くの場合子供は漫画雑誌を偶然に手にする。雑誌には、毎回一話完結で楽しめる漫画と、毎号読まなければ意味の分からない漫画があって、多くの場合一話完結の漫画は「ギャグマンガ」、毎号読まなければ意味が分からない漫画は「ストーリーマンガ」と呼ばれていたはずだ。ギャグの反対はシリアスなのかもしれないが、とにかく「ギャグ」と「ストーリー」が一対となっていた。

子供はまず「ギャグマンガ」を読む。何回か繰り返し読んで、読むのに飽きたりすると「ストーリーマンガ」を試しに読んでみるのだが意味が全く分からない。その号のストーリーマンガを楽しんだとして、次回その続きを読める保証はない。ストーリーマンガを楽しめるのは、毎号雑誌を買えるオトナか、本屋などで立ち読みができる大学生、高校生に限られる。

亭主の「進捗」はストーリーマンガだ。それだけ読んでも意味が分からないし、そもそも面白いとも思えない。だが、そんな境遇にあってもストーリーマンガは依然として漫画雑誌の主軸にある。

より以前の記事一覧

2020年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
フォト
無料ブログはココログ