雑談

2019年5月 7日 (火)

05/06 日々雑感

GWが終わった。

各段コメントはない。世間がいうところの史上最長の10連休はほぼほぼ自宅に居た。

今年も家庭菜園を作ろうと連休初日にプランターを持ち上げ、腰を痛めてしまった。ぎっくり腰ではないが、腰に違和感があり、これをかばっていたら太ももの方まで痛みが広がった。以降痛みは治まったものの右足に力が入らず、ほぼ10日間、えっちらおっちら年寄りのように歩いていた。

連休前の疲労がたまっていたのだろうか、急に体の自由が利かなくなり強制的にスリープ状態となること数度。体は寝ているが意識ははっきりしており、自分のいびきが聞こえる。現象としては面白いがあまりうれしい話でもない。健康的にもあまりよくない状態のような気がする。

家庭菜園の手入れをしたり、家の周りにある様々な不用品を市の清掃センターに搬入したりと、普段できないことはしっかりできた。一方で休みをしっかり休めたかは自信がない。オーディオや読書や音楽鑑賞に取り組んだ連休でもなかった(おっとオーディオはケーブル整理をしたっけ)。せいぜい愛犬たちとしっかりスキンシップできたことが成果と言えば成果だろうか。

まあそんなこんなのGWなので特にコメントはない。

右足に力が入らないのだけはなんとかしたい。このままだと走ることすらおぼつかない。

 

2019年5月 4日 (土)

05/04 日々雑感

GWである。

このブログを日々の記録とするならば毎日の亭主の行動をつぶさに報告すべきなのだろうが、あいにく大したことはしていないため、報告すべきことも特にない。というか、報告して面白いことがあるならば率先して報告しているはずだ。

昨日、時間を見て水戸赤塚のワンダーレックス(旧ハードオフ)と水戸の川又書店に行ってきた。

何を買う、というわけではなく、店頭に並べられた品物から刺激を受けることが目的だ。

日々変わり映えしない生活をしていると、すべてが退屈で、ありふれたものに見えてくる。新しいコトを起こすことが億劫に思えてくる。そんなときは外に出て、新しい情報を仕入れるのが良い。興味のないことに無理やり興味を持つ必要はない。これまで慣れ親しんだこと、気軽に興味が持てることが良い。亭主の場合、本やCD、オーディオがそれにあたる。

店頭に並ぶ中古オーディオを見ていると(大したものが並んでいるわけではないことはさておいて)様々な思いが心の中に湧き上がってくる。最近亭主の中では沈滞ムードのオーディオであるが、あんなことがしたい、こんなことがしたいという気持ちがあれやこれやと思いつく。SACDプレーヤが売られているのを見ると、安いSACDプレーヤでYMOのリマスタリング盤が聴きたいと思う。DALIの普及版ブックシェルフを見ていたら、現在PCオーディオで使っているAuratone QC-66をメインシステムに移設して、PCには代わりとして小粋なブックシェルフを置きたいと思う。オーディオに大きく投資できるならばそれも良いが、ちょっとした出費で新しい機器を導入し、手軽に楽しむのでも充分だ。

翌日家事の合間を見つけて、オーディオラックの背面にあるオーディオケーブルをすべて抜き、ホコリなどを良く拭いてつなぎ直してみた。音が良くなったかはよくわからない。以前は埃っぽかったラックの裏がこざっぱりとして、オーディオを楽しんでいる気分になった(本格的にやるならば接点磨きやケーブルの被覆剥きなどやってもよかっただろう)。これだけ楽しめて出費はゼロ円、しかもラック裏がきれいに整理されたのだから、良いコト尽くしだ。

昨日の話に戻る。

ワンダーレックスでオーディオ方向に刺激を受けた次は、書店である。

川又書店では2冊ほど購入した。書名はおいおいレビューなどで報告していく(つまり買ったのは漫画や雑誌、技術書などではない)。こちらも書店の売り場を眺めていると様々にインスピレーションが湧いてきて、あれも読みたい、これも読みたいという気持ちになった。ただ亭主には悪い癖があって、ある作家やジャンルの作品を集中して読み込んでいると突如その作家や、ジャンルに飽きてしまうのだ。いわゆる「おなかいっぱい」というやつ、作品のパターンがある程度読めてしまったり、あるいはたいして得られるものがないと思ってしまった瞬間、(以降の作品も似たか寄ったかであろうと勝手に見切りをつけ)興味を失ってしまうのだ。これまでSFやミステリ、戯曲集、日本史の解説書などでこの気分を味わっている。いや実際は読みたい気持ちがないわけではない。ただ日常生活で読書の時間が限られている中、新鮮な驚きと知識が得られる本はSFやミステリ以外にもたくさんあるのではないかと考えてしまう。

今回購入した2冊は、そういった亭主の飽きっぽさから少し趣を変えた、しかし気軽に興味の持てる2冊である。

 

2019年5月 1日 (水)

05/01 日々雑感

平成が終わり、令和が幕を開けた。

世間はざわざわと騒がしく、テレビは朝から新天皇の即位を寿ぐ番組を繰り返し放送している。

ゴールデンウィークが10連休となったそもそもの発端が新天皇の即位であることを考えれば、こういうイベントが組み込まれた連休、ということなのだろう。どこかに出かけても良いし、自宅でテレビを眺めても良い。もちろん改元にかこつけた様々なイベントに参加しても良い。亭主はといえば近所のスーパーで無料で配られるという紅白饅頭を目当てに、買い物を数度に分けてそのたびに饅頭をゲットしたりしていた。いちおう言っておくが妻の指示である。もし亭主が独身だったならまったく別の行動に出ていたはずだ。

このスーパーでは、チェーン全体で無料の紅白饅頭を16000個配ったそうである。メーカはヤマザキ、意外にも粒あんであった。早速一つ食べてみたが美味い。粒あんが食感の良さを引き立てていてお茶はもちろんコーヒーにも合う。これが無料で食べられるというのだからお祭り騒ぎも悪くない。

午後はケーズデンキに出かけ、プリンタのインクを買った。本当はiPad mini 5を見に行ったのだが残念ながら店頭になかった。月末にコンサートに行くので双眼鏡を物色したが正直何を選んでよいかよくわからない。双眼鏡を覗くと視界がときどきまっくらになるのはなぜだろう。左右の視野が分離していて、これが正しい見え方かもわからない。もっと左右の像が一つにみえるとおもったのだが、今の双眼鏡はすべてこんな感じなのだろうか。そんなところからわからないでいては安物買いのナントヤラになると、今回は購入を見送った。ネットで少し調べてみるとしよう。

少なくとも亭主の日常は、平成の時代と全く変わらない。

2019年4月30日 (火)

04/30 日々雑感

なんだかんだで平成最終日である。

世間は朝からカウントダウンムード、テレビも店も妙に盛り上がっている。テレビによれば「夜にそばを食べる」人間や、「渋谷でカウントダウン」をする人間もいるらしい。なんだかよくわからないが、大みそかみたいなものらしい。

我が家では(妻が体調を崩しているので)夕食をスーパーの総菜弁当で済ませた。世間の盛り上がりとは全く関係なく、淡々とした平成最後の日を送っている。そうそう、ベネズエラでクーデターが起こったらしい。亭主は出張で何度かベネズエラに行ったことがあり、親しくなった人も少なからずいる。ここ数年ベネズエラはハイパーインフレに悩まされ、治安が最悪レベルにまで低下しているという。連絡を取っていないため現地の様子はニュースでしか知らない。気がかりである。平成最後とは関係ないけれども。

Yahoo!ニュースで改元の瞬間を迎える各地の様子をライブ配信している。渋谷の交差点は大混雑らしい。改元の瞬間、渋谷は果たしてどんな騒ぎになるのだろうか。

2019年4月27日 (土)

04/27 日々雑感(2)

ところでもうすぐ元号が変わるそうで、世間は(テレビを中心として)なんやかやとざわついている。

亭主の勤め先も一応「10連休」なのだが、ゴールデンウィークの大渋滞を避けてずっと自宅にいる予定である。ゴールデンウィークのお出かけは先週の土日、実家への帰省として済ませている。その翌々日が人間ドックだった。とにかく精神的にも肉体的にも休息しないと体がもたない。

亭主にとって「平成」という時代は、とにかくざわついた時代であった。バブル景気やリーマンショックなどの物価の乱高下、阪神淡路大震災や東日本大震災、熊本地震、北海道での大地震などの天変地異、それに地下鉄サリン事件やアメリカ同時多発テロ、イスラム国の台頭など新たな世界的脅威に脅かされた時代だった、と書いて、否定できる人はおそらくいないだろう。インターネットやスマホ、高速道路や新幹線の開通など暮らしやすさは向上した。しかしその反面生きていくことが難しい時代にもなった。

新たな元号「令和」で始まる時代がどんな時代になるか、なってほしいかと妻に問われて、「とにかく平穏無事であってほしい」と答えた。多分無理だろうが、そう答えるしかないと思った。

日本は平成に到来した2度のバブルを通じて絶頂期を迎え、今はかつての絶頂期から徐々に衰退していく時期にある。社会が徐々に衰退していくなかで我々はこれまで広げてきた風呂敷をどうたたむか、新たな風呂敷を広げるべきか否かを選択していく時期であると考えている。

2019年4月25日 (木)

04/25 日々雑感

このところブロ活が滞っている。

読書の進行も遅いし(一応読んではいる)、4月に購入したCDはたったの1枚と、ブログの記事にするネタに乏しいこともある。そもそも歳をとってくると、基本的にどんなことも「テレビの再放送」的、すでに経験/報告済のことだったりするので、ことさらブログで報告すべきこともなかったりする。まあそんなことを言っていてはブロ活など不可能なのだけれど。

ブロ活を支える基本的なメンタリティが「好奇心」と「肯定的な態度」そして「サービス精神」であることは間違いないわけで、これがない状態で新しいネタなど仕入れられる筈がない。新しいブログを始めるなどと言っても、書くことがなければ「箱を作って中身を入れず」である。なので、なるべく「好奇心」「肯定的な態度」「サービス精神」を忘れず日々の生活を送っていこうと思うわけだが、なかなか気持ちが追いついてこないというのが実態である。

火曜日に人間ドックを受診したところ、すべての検査結果が昨年と同程度だった。検査後に産業医と面談したのだが、昨年の結果とあまりにも変化がないためか、それとも亭主がいい加減高齢だからか、さくっと説明したのち速やかに面談の終了を告げられ、なんら反論の機会が与えられないまま面談室を出る羽目になった。例年ならばいろいろと検査結果に難癖をつけられ、生活態度を改めよとか、運動せよとか言われたはずが、今年に限っては何の指導もなかったのだ。おかげで(難癖をつけられることを予想して準備していった)反論を述べる機会が一切与えられなかった。普段のうさばらしとばかりにゴネてやろうと思っていたので、産業医の態度はいささか拍子抜けであった。おそらく亭主には生活改善ほどの価値もないのだろう。改善すべきは将来ある若者たちの生活であろうと一人で納得して帰ってきた。

ただおかげさんなことに、耳も眼も異常なし、肺も心臓も元気そのもの、オプションで受診した歯科検診と唾液検査では虫歯も、また虫歯菌も発見されなかった。昨年再検査となった痔も再検査とならず、見た目には(高齢なりに)健康を維持しているようである。よかったというべきなのか、それとも「もっと構ってほしい」というべきなのか。目下複雑な男心である。

2019年3月26日 (火)

03/26 日々雑感

このところ、YMO関連のアルバム再発が続いている。


Yellow Magic Orchestra, Solid State Survivorほか、YMOの歴代アルバムがSACDハイブリッドで再発されていて、SACDプレーヤを持っていない亭主にとっては無駄遣い以外のなにものでもない。ライナーノーツに新たな記事が追加されているだの、デジタルリマスターで音質が向上しているだのと売り文句は盛大だが、肝心のSACDが無ければ音質向上もへったくれもないのである。こんなことを言ってはまずいのかもしれないが、「あとで買い逃して後悔しないように今買っている」。YMOの再発盤を買う理由はこれに尽きる。いや、YMOの再発ならば、アルバムの枚数もたかが知れている。計画的にリリースされるのであればその時々の楽しみとして購入しても良い。その程度の前向きな理由は持ち合わせているつもりだ。


ところが先日、Amazonのマイリストを覗いていたら、細野さんのPhilharmonyも再発されるというではないか。すでに細野さんはHosono HouseのセルフカヴァーであるHochono Houseをリリースしている。そういえばユキヒロさんもセルフカヴァー作Saravah! Saravah!をリリースしているので、ここらで一気に旧作が再発になるのかもしれない。探してみると坂本さんの千のナイフも再発される。細野さんのはらいそや、ユキヒロさんの薔薇色の明日も再発される。これはいかんと夢中になってAmazonのカートにCDを突っ込んでいたが、ふと我に返ってカートからすべてのアイテムを削除した。再発ラッシュにまんまと乗せられ、軽いパニックに陥っていたようだ。


再発が悪いというわけではない。手に入りにくくなった旧作ではなく、再発で新たなファンを獲得するのは良いことだ。リマスタリングで音質を向上させるのも付加価値としてはまっとうだろう。しかし、すでにアルバムを所有している古くからのファンにとっては、再発盤の購入は二重投資、三重投資になる。なにしろ細野さんも坂本さんも、ユキヒロさんも尋常でない数のアルバムをリリースしている。これらすべてが再発の対象だというならば、亭主にはそれを買うだけの金も、買った後アルバムを保管するためのCDラックもない。


その昔、行きつけだったCD店の常連客に「カタログ買い」をする人がいて、月に一度CDジャーナルを持って現れては「ここ(と新譜情報の一部を指さす)から、ここ(と別の部分を指す)まで買いますと言っていたのを思い出す。この常連客が聴いていたのはもっぱらジャズだった。ジャズやクラシックならばカタログ買いや、「ここから、ここまで」といった大量購入もありかもしれない。しかしそれにしたって自宅に同じアルバムが2枚、3枚と重複するのは金と置き場所と聴く時間の無駄にならないだろうか。


とりあえず他人のことは良い、と気を取り直す。アルバム未収録のボーナストラックが追加されているとか、未収録作品やアレンジバージョンをまとめたDisc 2が同梱されているなどといったら、それだけを目当てに買うというのも理由の一つだろう。あえて1曲、2曲オリジナルに加えてくるというのも(多少姑息ではあるが)販売戦略の一つと理解しつつ、それでもなおモヤモヤとする亭主である。

2019年3月13日 (水)

03/13 日々雑感

東日本大震災から8年が経過した。


本来ならば震災発生の3月11日に日記を上げようと思っていたのだが、いろいろと考えていたら二日も経っていた。


震災から8年が経過してもなお、被災地は完全復興には程遠く、故郷を離れて不自由な生活を送る人たちも多いときく。だが、亭主がそれを今ここで語っても、それは自分自身の言葉ではなく、また自身それに対して何ら解決法を見出していない状況で何かを語ったとしても、単なる愚痴やぼやきに過ぎない。


むしろ亭主がぼやぼやとしていたのは、3月11日と現在の状況がどことなく似ていると感じている、その理由を言葉として表現したかったからだ。


2011年3月11日前後で、世界は大きく変化した。亭主にとって2011年3月10日と11日、いや3月11日14時と3月11日15時の間には、越えることのできない溝があって、過去を思うたびこの「溝」が亭主の心の中で引っかかっている。本来連続するはずの歴史がそこだけ不連続であるという、ある種の境界線だ。


ならば今はどうか。かつての不連続が「溝」によるものだとしたならば、昨今の状況は「潮目の変化」に近い。これまで順当に流れていたものが、急に方向を変え速度を変え、見知らぬ方向へと動き始めている、そんな気がしてならないのだ。

2019年3月 8日 (金)

03/08 日々雑感

会社からdocomoのガラケー(SH-02K)を支給されたが、これがすこぶる使い勝手が悪い。

亭主はこれまでJ-phoneとauのガラケーを使ってきたので、docomoのガラケーのユーザインターフェースに慣れていないことも、使い勝手の悪さに影響している。auのメニュー機能はかなり整理統合されていて、操作に不慣れな人間でもボタンを一定方向に押し続ければ、必ず目的とする設定画面にたどり着くようデザインされている。これに対しdocomoのメニューはメニューがツリー状に構成されているため、どこになにがあるか直感的にわかりにくく、試行錯誤を必要とする。

さらにお粗末なのは、絵文字だ。auやsoftbank、あるいはiPhoneやAndroidの絵文字の表情の豊かさ、暖かさに比べると、docomoのガラケーのそれは「ひどい」の一言につきる。docomoのユーザーが、こんなお粗末な絵文字でコミュニケーションをとっては満足しているのだと思うと頭がくらくらする。これが国内最大手キャリアといわれるdocomoが、国内最多数のユーザに提供するユーザーエクスペリエンスなのだと思うと目の前が真っ暗になる。

しかし亭主を一番いらつかせたのは、メニューでも絵文字でもなく、メールの文字入力である。もっとも文字入力に関してはauやSoftbankのガラケーでも使いにくい。テンキーをぽちぽちと押してかな文字を入力する、あれ。ただしdocomoのそれは、ガラケーの操作に慣れていたはずの亭主ですら苦痛なのだ。改行が右下の「#」になく、左下の「*」にあるのはなにかの嫌がらせだろうか。往年のJ-Phone(Vodafone, Softbank)、auは「#」に改行を割り当てていた。PCのテンキーもiPhoneやAndroidのフリック入力も右下が改行である。独特の価値観を国内最多数のユーザに押しつけるdocomoの傲慢さが亭主の癇に障っている。

いまさら過去の製品にケチをつけるのが見当違いであることは十分理解している。セキュリティやコストの観点から会社がスマートフォンではなくガラケーを支給する理由もわかる。かつてはこんな非人間的なユーザインターフェースを使用していたという歴史的事実からスマホのありがたみを実感し、ほのぼのするならばそれもよい。

しかし現実はといえば机の上に件のガラケーがデンと存在感を放ち、さあ押し戴いて使いなさいと主張している。そのうち携帯が振動し、社用の長いメールが送られてくるかと思うと気が重い。

2019年3月 4日 (月)

03/04 日々雑感

奇妙な夢を見た。


雨の降った日曜日の午後、犬たちとストーブの前でうつらうつらしていたら、いつのまにか以前夢に見た場所にいた。ただし今度は妻と一緒だ。


車で出かけようとすると、車の後ろから妻が言付けを持って追いかけてきた。助手席に座り、二言三言、一旦妻を家に送るため、近所をぐるりと回って家に戻ることになった。


ナビによれば、右折、右折、右折、そして左折すると元の場所に戻る。ナビ通りに右折、その先を右折。


ところがその先には予想とは全く違う景色が広がっていた。亭主が生まれ育った集落のようにも見える。河岸段丘の途中にある細長い集落。道は一本、その左右にぽつりぽつりと家が建っている。


家の並びは、亭主の生まれた場所とほぼ同じ。家の形もよく似ている。妻が犬をつれて、亭主の実家の方へと走っていくが見失う。亭主も犬を連れて実家への道をたどる。途中で妻のつれていた犬が戻ってくる。リードはついているが妻の姿は見えない。亭主は2匹の犬を連れていることになる。


やがて実家の前へとやってくるが、よく見ると実家とは窓の形が違う。道から眺めるに建物の形や棟の構成はそっくりなのに、外壁や窓の形が違うため、これが自分の家なのか、それとも他人の家なのかの判断がつかない。実家が改築したという話もないので、これは多分他人の家だろうとさらに道を進むが妻の姿は見えない。


ああ、多分これはパラレルワールドに迷い込んだのだろうと、漠然と思う。妻は元の世界に、亭主と2匹の犬は現実とよく似た、しかし現実とは異なる世界にいる。妻の連れていた犬は現実からこの世界へと、世界を超えてやってきたのだ。


―――目を覚ますと亭主の周りに3匹の犬が寄り添って寝ていた。ああよかった夢だったと思いつつ、結局あそこはどこだったのだろう、実家にそっくりな家には誰が住んでいたのだろうかと、ぼんやり考えていた。


そうそう、夢の中にいた犬は2匹だった。現実には3匹いる。


3匹のうち1匹は現実に居た。もう1匹は亭主と夢の中のパラレルワールドに、最後の1匹は妻と夢の中の現実にいた。妻の連れていた最後の1匹は夢の中の現実世界から、亭主が居た夢の中のパラレルワールドへと世界を超えてやってきた。


しまった、妻を夢の中に残してきてしまった―――と思ったら、玄関が開いて妻がヘアカットから帰ってきた。


妻と亭主、3匹が全員そろって、これで夢はおしまい。めでたしめでたし。

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